https://note.com/tao_memoria/n/n69fd603263f5
はじめに
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都市住民のふたつの「檻」
- 自由の奴隷
都市で自由な生活を送りためにはお金が必要だが、それが潤沢に回らない。結果として働けど働けど収入は上がらない時代となり、自由を維持するためにどんどん不自由になっていく。
- 生きる実感の喪失
脳化社会。人工物の中でのみ生活を続けているうちに、生物としての身体感覚が弱くなる。
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都市住民たちは都会と田舎、便利さと豊かさ、そのどちらを選ぶかという二項対立が渦巻いている
→「どちらかを選ぶのではなく、この揺れ動きをそのまま抱きしめるような生き方や社会のあり方を模索すればいいのではないか?」
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「あの津波を恨んでいない」
- 人間に恵みを与えてくれる「母なる優しい自然」と、ときに人間の命を脅かす「父なる厳しい自然」。ふたつはセットであり、どちらかを都合よく選べない。(→防潮堤という監獄)
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本書では今日の都市住民を「見えない檻」に押し込めている「化け物」の正体を解き明かしたいと思っている。その化け物は都市住民自身の内面に潜むがゆえに、私たちの目には見えない。だからこそ数値化も難しく、社会課題になりづらい。しかしその「見えない化け物」は確実に個人を、社会を深く蝕んでいる。
1. 食は命に直結する
1.1 生産者との出会い
- 生産現場の「顔」が見えない
- 都市住民たちは食べるという本来的行為からずいぶん離れてしまっている。かつてお年寄りは家で死んだものだが、今はその多くが施設や病院で最期を迎えている。「死」を忘れた人間は、「生」を貪ることもまた難しい。「死」は人間の思い通りにはならない。問われるべきは、この人間の思い通りにしようという意思そのものではないだろうか。
- 「命はみんなつながっていて、みんなで海を豊かにすればみんながその恩恵にあずかることができる(畠山)」
- 科学技術の進歩によって、人間は自然をコントロールし支配できると錯覚してきた。詰まるところ、人間中心の西洋近代文明とはそういうものだった。
- 集落では、死者や神や仏が当たり前のように共存していると、木瀬さんは語る。井戸や厠や山の木など、自分の暮らしを取り巻くいろいろなものに神が宿っていると信じている。
- 「たまに悪いことが起きると、もしかしたら裏の木を無頓着に切り倒したことのたたりじゃないかと。自分の都合ばかり考えて木に感謝することも忘れていた。『悪かったね』と自分の行いを振り返り、謝る祈りだ」
- 「それは明らかに、宗教信仰とは異なる、生活信仰だ」
→柳田の死生観と符合
1.2 農漁村の光と影
- 冷蔵庫行き
- 冷蔵庫=水産加工会社
- どこにも行くところがないダメな奴が行くところ
- 被災地ですらこの意識
- 頭で考えているだけではなかなか当事者意識は生まれない。人間は相手との関係性が見えて、初めて共感力が生まれる。
- 戦後、全国の農漁村には長男が残り、跡を継いだ。次男以下が上京して作ったのが、東京、大阪などの大都市。
- だから年と農漁村は兄弟だった
- but世代が3回転し、もはや田舎の家族や親族はおろか、知人にも農家や漁師がひとりもいないという時代になった
- 「東北食べる通信」を社会に生み落とす原動力になったのは、前述したように、農災の年の夏に行われた岩手県知事選挙だった。私は周囲の選烈な反対を押し切り、出馬に踏み切った。海と陸を隔てる巨大防潮堤の建設に、どうしても黙っていることができなかったからだ。それは伊東豊雄氏がいうところの近代の最も貧しい風景の根底にある、人と人を分断する思想、人と自然を分断する思想の象徴だ。そうした思想に侵食されずに、かろうじて「アニミズム(自然崇拝)の世界」を残していた岩手県沿岸部の漁村の復興に、この近代の思想を大々的に持ち込むことにどうしても大きな違和感を憶えずにはいられなかった。それは、生理的な拒絶反応に近かった。だから私にとっての県知事選は政治の聞いではなく、思想の闘いだったといっていい。